先日見た舞台『鴎外の怪談(脚本・演出:永井愛)』が、Googleによるインターネット上の思想の支配(彼らは情報の整理とよんでいるのだけれど)と重なってなんともヤキモキしたので、一筆書いてみることにする。
作品のあらすじ
明治期の軍医であり作家でもある森鴎外の苦悩を描いた作品。彼が思想弾圧の象徴であった大逆事件に遭遇した際、自分の置かれている保守的な立場である軍医と、自由な作家という立場の両極で苦悩するという内容。この時代には、海外から様々な思想が入ってきた。その際に、都合が悪い書物などを政府が発禁にし、弾圧していた。そして、書物のみならず、人や団体までもを逮捕し、死刑にするという大逆事件が起こる。その中で作家たちは、作品の中でメタファーを用いるなどして政府を批判したり、新しい思想を伝えていこうとした。
※大逆事件(1910年)では社会主義、無政府主義者を謳う幸徳秋水らが逮捕され、死刑に処された。裁判の中身はブラックボックス化しているが、政府による思想と言論の弾圧と言われている。
インターネットの自由と立ちはだかる壁
僕がインターネット上にブログというメディアで初めて何かを発信したのは10年と少し前の2003年だと思う。これまで、限られた人しか情報を発信することはないと考えていたので、なんて自由な場所ができたんだろうと感じた記憶がある。しかし近年、メディアをスケールさせ、事業にするにあたって立ちはばかる壁の存在が日に日に大きくなっていることに気がついた。GoogleやAppleなど巨人の存在である。
例えば、Googleの検索エンジンにとって都合の良いコンテンツ内容、構造にしなければトラフィックが回ってこない状況。Googleがよしとする思想や、SEOに最適化して記事のタイトルを書くなんぞつまらないことはやりたくないライターも多いのではないだろうか。
例えば、GoogleのAdsenseという広告ネットワークの掲載基準を満たした記事でないと収益を得ることは難しい状況。現状、過激な思想やビジュアルを含むコンテンツにおいて、広告を掲載することは認められていない。もちろん、Googleの広告を利用しなければよいという話であるが、マーケットのかなりの量を抑えているAdsenseを選択肢から外すことは難しい。
例えば、スマートフォンでアプリを配信しようとすると、Google PlayかAppleのApp Storeにコンテンツを提供しなければならない。サービスには審査があり、世界にサービスを配信しようとしたとき、この2つのネイティブアプリのマーケットを外して考えることはあり得ない。もちろん、それほどメリットがあるということの裏返しであるが、彼らがNGと言ったコンテンツは配信できない。僕らも、何本もお蔵入りのサービスを見てきた。
例えば、動画を配信する際は、自社でサーバーを持つことも可能だが、ファーストチョイスはやはりGoogleのYoutubeになるだろう。ここでも、彼らの基準を満たしたコンテンツのみしか配信は認められない。
など、日常で非常に便利なサービスも、別の視点から見ると不自由さを感じることがある。
これらを使わずとも表現をする方法はあるのだが、自由なはずのインターネットで影響力を持とうとすればするほど、どうもこの2社の気に入るコンテンツにせざるを得ない状況が存在する。現状では、多くのサービスにおいて事業の入り口も出口もGoogleやAppleのプラットフォームが絡んでおり、彼らにとって都合の悪いコンテンツを流通させることは難しいからである。(この2社に限らず、便利なサービスを提供してくれる巨人たちに感謝するとともに、それだけでは新しいコンテンツが生まれにくくなる、という危機感を感じている)
サービス提供者としてのGoogleからの脱却
そこで今、一つの流れとしてGoogleからの脱却である。
トラフィックは機械である検索エンジンに頼らず、固定ファンと、ソーシャルメディアによる人力の拡散を得る。例えば「バイラルメディア」と言われるBuzzfeedやUpworthyなどは、Facebookからの流入が70%以上と言われているように、WEB上で新たな情報伝播の経路を得ている。(ここではFacebookやtwitterの存在はプラットフォームではなく、人力の集合体と捉えてみる)
収益は、一定基準を満たした広告主の集合体にすぎないアドネットワークに頼らず、広告主ごとにカスタマイズした、コンテンツ型の広告を制作する。(正確には、超テクノロジーの部分と、超人力なクリエイティブの両極を組み合わせる)また、課金する場合は、GoogleやAppleの決済ではなく、ダイレクトな課金方法を利用するのも手法として可能である。
など。上記は一例で、既存の施策とのミックスになるが、僕らは、僕らの思想をもって自由にメディアを運営できるように自活力をつける必要があるのではないだろうか。GoogleやAppleからアプリをリジェクトされたらサービス終了、という事業モデルではリスクが大きすぎると考えている。そのために、僕らがもつ面にこだわらず、コンテンツ配信の方法を多様化することで、クリエイターにメリットが提供できるかもしれない。
メディアという面へのこだわりを捨てる
極論、僕らがメディアという「面」を持たずしても、コンテンツをあらゆるところに伝播させることができたら理想と言えるのではないか。SmartNewsの藤村さんも、“バイラル”の次にくるもの/「分散型 BuzzFeed」構想の衝撃というエントリで、情報やコンテンツが世の中に広がれば、自社にトラフィックを持ってくる必要性は必ずしもないのではないか、と述べている。そのために、ディストリビューション手段、運営手段としてGoogleやtwitter、Facebook、Instagram、LINEなどのプラットフォームと組めるところは組んでいくし、そうでない部分は自力で切り開かなければならない。メディアという「面」へのこだわりと制約を捨てることで、情報とコンテンツを配信する手段は無限に広がるのではないか。同様に、広告もネイティブ化し、コンテンツと同様に「面」ではない手段で広がっていく、という姿に形を変える可能性がある。
特定のプレイヤーに用意された土俵の上で戦うのは、少々飽きてきた、というのが最近思うことであります。だから、もっと自由なコンテンツ制作、配信、収益化の方法を構築していきたいと考えています。明治期の鴎外たちがそれを模索したように。
それではまた。