NOT A HOTELのNFTで北軽井沢に宿泊してきた

NOT A HOTEL北軽井沢に行ってきました!

近所なのもあって今回は家族で利用。スマホでチェックインできるUXや、コンシェルジュ、室内のiPadでのライティングやサウナの管理などはみなさん上げている通りの快適さ。専用レストランも美味しかったです。

僕はNFTを一昨年購入したんですが、「偶然引き当てた旅する日を 特別な1日に」というコンセプトで、年間の特定日にNOT A HOTELに泊まれるKeyが送られてきます。

通常利用と違うのが、

• 購入時点で年間365日の中でどの日が当たるかわからない

毎年どの施設、どの部屋のKeyが送られてくるかわからない(3ヶ月前にDropされる)

• これからどんな施設ができていくかわからない

よく考えると47年に渡る壮大なガチャw

でも、行きたいところに行くなんて日常さえも抜け出して、ぶっ飛びカードみたいな一日があってもいいんじゃないか、と思わせてくれるのが最高です。

かなり先進的な取り組みで、現時点では、

• KeyのリセールはOpen Seaでの流動性が少ない(が、実際ETHで売買されてる)

https://opensea.io/ja/collection/the-key-nah

• NFT自体のリセールも多くはない(累計出来高250ETHくらい)。が、もし売りに出てたらオススメ

https://opensea.io/ja/collection/membership-s

というマニアックなマーケットなんだけど、実際ワークしてるからすごい。

どんな部屋が割り当てられるかに関しては、所有者が先に利用日を埋めていくので、3ヶ月前時点で空いている部屋のフィラーなんだと思うけど、そこもよくできてる。NFTの割当数多くない割に管理大変そうだけど。

というわけで、来年も楽しみです。

祖母を見送ってきた

祖母が亡くなった。ちょうどこのまえ、あとちょっとで100歳だね、なんて話していたときだった。

通夜を行い、祖母の子どもたち(僕の親に当たる)と久しぶりに集まった。翌日が告別式だったので、セブンイレブンでちょっとしたお酒とおつまみを買ってきて飲んだ。気づけば自分も40歳を超え、親もそれぞれ60歳、70歳を超えている。資産運用の話などしてみたが、残りの人生をどう楽しく生きるか、に主眼を置くべきなのは明らかだ。とするならば、年齢関係なくそれを考えるべきなんだろう。

祖母のご遺体と祭壇しかない部屋で、時間はゆっくり過ぎていった。

翌日の告別式では、お経をあげてもらい、火葬場へ。お弁当を食べたりと、また親戚と話をする時間があった。こうして、丁寧に見送る時間がこの世とあの世とのグラデーションを生んでくれているのだろう。

おばあちゃんありがとね。

終わらせるという行為について

何かを終わらせる、というという行為にはネガティブな響きがつきまとう。何かを辞めること、自分で幕を引くこと、いなくなってしまうこと・・・

ただ、全てはいつか終わる。

だから、自分で終わりを決めて、次に進むことも一つの方法だと思う。ロールプレイングゲームのように、ボスを倒したら終わり、という明確な目標があればいいけれど、人生には多分ない。だから、Lv.40になって、ボスを倒せるくらいの力がついたら、倒しに行くこともできるし、延々とLv.99まで上げることもできるし、なんとなくウロウロすることもできる。

ボスを倒したら大好きだったゲームが終わってしまう。

一方で、倒したことで新しいゲームをはじめることができるようになる。

一つのやることを決めて、極めるまで進む、という美しさがある。職人や武士のように。武士の友達はいないけど。しかし、そこに到達できる人はごく一部だ。だから、Lv.40というそこそこのレベルでボスを倒して、次のゲームに行くのだって悪くない。

というわけで、今Lv.40に近づいているゲームをいくつか終わらせに行っている。この基準は人それぞれだけど、僕にとっては仕事ならアプリで1番を取ることだったし、釣りならマグロだったし、ゴルフなら80台前半で回ることだし、ワインなら世界最高と呼ばれるものを飲むこと。

そこまではやるのは簡単ではないから相応の努力をするし、時間もお金も使う。

その結果、一度クリアするということは一つの区切りになるんじゃないかな。タマタマでもいいから、一度クリアして、終わらせる。

まあ、そんなことを気にしなくなったときに、その活動は自分にとっての本当の趣味になるんだと思う。そうしてただ時間を楽しめるようになることが楽しみだ。

今度は、そのために時間をタテじゃなく、ヨコにつかう方法について書こうと思う。

自分基準

京都に来ています。来るたびに会いたくなる人っていて、その余白をもつために1泊余分にとっといてよかったと思う。

僕にとっての友人でもあり、コーチでもあるジョーくんとの会話は大切な時間。話をしていると、自然と考えていることが言葉になったり、今必要な視点がぽろんともらえたりする。

今回は、自分基準という言葉。

クリストファー・ノーランのオッペンハイマーを見て、そう思ったとのこと。自分が納得する基準で作品をつくったり、仕事をすること。

それは、相対的な評価じゃなくて、自分が納得できる基準に達しているかどうかで物事を判断すること。面白いけどまあまあ、じゃなくて、絶対的に面白いか。クオリティが高いか。世界基準で戦えるか。

自分基準をどこに置くかで、自分の生み出すものが変わってくる。そこそこの年になって、そこそこできるようになって、でもそこそこじゃないものを生み出す人ってどうやってるんだっけ、と考えると基準が違うから。僕の自分基準を持っていこうと思った。

穏やかだけど、そんなことを話したモーニングでした。いつもありがとう。

優秀さが人生後半にもたらすもの。

とある一定の年齢を超えた(40代〜60代くらい)のグローバルエリートの集まる学びの会でご一緒した20代の方が、なんか自分とは違うというか、別世界の話と感じたと言っていた。
素晴らしい対話の会だったけど、僕もなにかモヤモヤを感じる部分があったのでこの違和感を言語化してみたい。

「優秀」であるとどうなるのか。

それは、学校で教わった人生をよく生きるコツではなかったのか。

諸先輩方と話をするとある種の答え合わせができるように思う。優秀であると、他人から期待され、世の中から必要とされ、他人の期待に応えてしまう人生になりがちである。

人や会社の期待に応えることで結果を出し、必要とされることに一定の満足を得るが、人生後半にそれが自分がやりたかったことではなかったかもしれないことに気づく。そんなことはないだろうか。

優秀であるとは、他人から見て優秀であるということで、評価者がいなかったら存在し得ぬものなのではないか。

それなら、量産型グローバルエリートになんかならずに自分の好きに従える生き方をするのっていいよね。そこで価値観を他人軸から自分軸へのシフトすることが必要になる。

とある大企業の役員をやっていた方が、息子の世代にはこんなテーマ必要ないんじゃないか、って言ってたけどそうなんだと思う。

でもさ、50でも60でも70歳でも、今から始めればいいんだよね、死ぬ前に気づいたんだから。